~宇奈月温泉事件~
1 宇奈月温泉は,富山県の黒部渓谷にある温泉です。
かつて「桃原」と呼ばれた無人の台地でしたが,大正時代,黒部川の電源開発が始まって以降,黒薙温泉からお湯を引いて,温泉を開く計画が進められました。
開湯は大正12年(1923年)。100年近くの歴史を誇る温泉です。黒薙温泉からの引湯管は約7.5kmにも及び,透明度は日本一とも言われています。泉質はアルカリ性の単純泉,リウマチや運動機能障害,神経症などに効くそうです。
2 さて,この宇奈月温泉は,長い歴史や温泉の素晴らしさとはまた別の理由で,とても有名な温泉です。
特に,弁護士を含め,法律を学んだ者であれば,知らない人はほとんどいないでしょう。
それは,この宇奈月温泉が,民法判例上,極めて重要な事件の舞台となったからです(いわゆる「宇奈月温泉事件」)。
3 事件が起きた原因の一つは,冒頭でも紹介した超長い「引湯管」です。
当時,宇奈月温泉は,周辺で鉄道事業を営むY社が経営していましたが,源泉から温泉街まで引湯管が通る土地の一部を,Y社はまだ買収しきれていませんでした。
これに目をつけたXは,引湯管がその一部(2坪ほどの土地)をかすめる土地を購入し,Y社に対し,次のように要求しました。
「Y社の引湯管が私の所有地を通っているのは,不法占拠に当たるので,撤去してください。」
「引湯管を撤去しないのであれば,周辺地(合計3000坪)を,総額2万円余(現在でいうと数千万円)で買い取ってください。」
賢い…!
引湯管は,Y社が巨額の費用を投じて完成させたものでした(約30万円。現在でいうと数億円)。引湯管を引き直すなど,できるはずがありません。
Y社は当然,Xの要求を断ります。
Xは裁判を起こしました(所有権に基づく妨害排除請求)。
Xの作戦勝ちか…!?
4 しかし,裁判所(大審院)はXの作戦を正義に反するものとして,認めませんでした。Xは敗訴したのです。
以下,大審院判決の引用です(読みづらい方は,5へ)。
「所有権ニ対スル侵害又ハ其ノ危険ノ存スル以上,所有者ハ斯ル状態ヲ除去又ハ禁止セシムル為メ裁判上ノ保護ヲ請求シ得ヘキヤ勿論ナレトモ,該侵害ニ因ル損失云フニ足ラス而モ侵害ノ除去著シク困難ニシテ縦令之ヲ為シ得ルトスルモ莫大ナル費用ヲ要スヘキ場合ニ於テ,第三者ニシテ斯ル事実アルヲ奇貨トシ不当ナル利得ヲ図リ殊更侵害ニ関係アル物件ヲ買収セル上,一面ニ於テ侵害者ニ対シ侵害状態ノ除去ヲ迫リ,他面ニ於テハ該物件其ノ他ノ自己所有物件ヲ不相当ニ巨額ナル代金ヲ以テ買取ラレタキ旨ノ要求ヲ提示シ他ノ一切ノ協調ニ応セスト主張スルカ如キニ於テハ,該除去ノ請求ハ単ニ所有権ノ行使タル外形ヲ構フルニ止マリ真ニ権利ヲ救済セムトスルニアラス。即チ,如上ノ行為ハ,全体ニ於テ専ラ不当ナル利益ノ摑得ヲ目的トシ所有権ヲ以テ其ノ具ニ供スルニ帰スルモノナレハ,社会観念上所有権ノ目的ニ違背シ其ノ機能トシテ許サルヘキ範囲ヲ超脱スルモノニシテ,権利ノ濫用ニ外ナラス。」(大審院第三民事部判決昭和10年10月5日民集14巻1965頁)
5 カタカナは非常に読みづらいですよね。要約すると,次のとおりです。
① 所有権を侵害されたら,所有者はその状態を除去できる(裁判で除去を請求できる)。これは当然のことである。
② しかし,所有権の侵害による「損失」が取るに足りないもので,逆に,所有権の侵害を除去することがとても難しい(除去できるが,莫大な費用がかかる)という場合もある。
③ そのような状態を奇貨として(チャンスだと思って),不当に利益を得る目的で土地を購入し,侵害状態の除去を迫ったり,不相当に巨額な代金での買い取りを要求したりして,その他一切協調しない,という態度は許されない。
④ 上記のような行為は,「所有権の行使」という外形は帯びているが,真に権利の救済を求めようとするものではない。もっぱら,不当な利益の獲得を目的として,所有権を利用しているものであり,社会の常識からして所有権の目的に反し,所有権の機能の範囲を超えており,「権利の濫用」に他ならない。
6 このように,「宇奈月温泉事件」は,裁判所が「権利の濫用」という理論を確立させた,極めて重要な事件です。
民法の「判例百選」(重要判例を約100個ずつ紹介するシリーズ)では,1番目に登場する判例であり,民法を学ぶ人が最初に目にする判例であると言っても過言ではありません。
そういうわけで,宇奈月温泉は,法律を学んだ人にとって印象深い温泉なわけです。
7 最後に余談ですが,実際の裁判で「権利の濫用」を主張するケースは非常に稀です。
ひょっとすると皆さんも,宿泊客や取引先から,(今回のXのような)非常識で無茶な要求を受ける場面があるかもしれませんが,「非常識だ」,「無茶だ」という理由で簡単に「権利の濫用」という理屈が使えるわけではありません。
「権利の濫用」は,裁判をする我々弁護士からすれば,いわば最終的兵器みたいなものです。他に言える法的主張がなく,あとは「権利の濫用」くらいしか言えることがない,といった感じです。
「権利の濫用」については,これだけ頭の片隅に置いていただき,実際にお困りのケースがあれば,個別にご相談いただければと思います。